仕事をしていると、「看護師になってよかった」と思う場面は、数え切れないほどたくさんあります。まず、たくさんの人との出会いがあります。病気で入院してくる人がほとんどですが、軽快されて退院していく方を送り出すとき、患者さんやご家族の笑顔を見ると、晴れやかな気持ちになります。また、入院中の治療や看護指導によって、日常生活を改めると患者さんが決意してくださると、光栄で誇らしくなります。また、その人に合った看護計画を立て、計画が順当に進み健康状態の改善が図れたとき、正直ほっとします。これらは全て「良い結果」の場合で、もちろんそうでないことも多々あります。
手術後の経過が不良でなかなか退院できない患者さんもいます。それまで順調にリハビリが進んでいたのに急変して亡くなった患者さんもいます。このような「悪い結果」とも言うべき状況でも、看護師に立ち止まる時間はありません。特に亡くなった患者さんとの別れの時は、生前を知っているだけに辛く悲しいものです。しかし亡くなったという「結果」が全てではないのです。たとえ生前のその人の人生のほんの一部分だったとしても、関わることができたこと、関わりの中で教わったこと、お話したこと、笑ったこと。看護という職業をやっていなければ出会うことはなかっただろうこと。そんなことを考えると、看護師をしていて良かった、出会えてよかった、と思えるのです。
家族の方との関わりもまた、ひとつの出会いです。最近では時代の影響か、医療者に対して厳しい患者さんやご家族もいらっしゃいます。また、個人的に勉強されて病気や治療について医療者並に知識を持っておられる患者さんもいらっしゃいます。以前のように、「まな板の上の鯉ですから」と医者の治療方針を鵜呑みにする患者さんのほうが少なくなりました。これは患者さんの権利として当然のことですから、知識のある患者さんにはそれ相当の説明を、納得のいかれない患者さんには納得されるまで説明を、と医療者サイドも細やかな対応をするべきです。また、誠意をもって接し、真摯な態度で看護に当たれば、いつか理解してくださるものです。患者さんや家族と心が通じ合えば、双方の心につながりが見出せます。これも、看護師として働く上で得られる喜びのひとつといえるでしょう。
あなたが人と接するときに、このような喜びを感じることができるなら、看護という職業はとても素敵な宝箱のようなものです。辛いことも乗り越えられる力を、いろんな人から頂いて働ける、そんな職業が他にあるでしょうか。看護師になってよかった、と思える出来事が宝箱につまっていき、あなたの看護観や人生観、人間性を育んでくれることになるでしょう。
もちろん心の底から!ということではありません(笑)。
本心からそう思ってしまえば、もう看護師として働く理由はなくなってしまう訳で、ここでいう「やめときゃよかった」は多くの看護師さんがぼそっと心の中でつぶやいたであろうシーンを取り上げているものです。きっと皆?同じような経験があるはず!
・新人のとき、採血の練習をさせられました。よく使う針はもったいないから、大きいのを使え、と出された針は18G・・・。献血サイズです!こんな痛い思いするなんて、看護師なんてやめときゃよかった。
・新人の採血は、患者さんも緊張しています。いざ実践!患者さんに震える手で針を刺しますがうまくいかず、患者さんが「看護師さんに代わって!」と叫びました。看護師なんてやめときゃよかった。
・忙しい夜勤で仮眠が取れず、朝になりようやく終わったと思ったら、朦朧とする意識の中での勉強会強制参加。睡魔との戦いです。卒後教育、ありがたや。でもこんなとき、本音では看護師なんてやめときゃよかったって、ちょっと思います。
・せん妄状態の患者さんに頬を叩かれたこともあります。痛かった。しみじみ、看護師なんてやめときゃよかった。
・夜勤中、ナースコールが5件一気になったとき、泣きそうでした。ペアの先輩は仮眠中で起こすのも悪いし、トイレにも行けず・・。つくづく、看護師なんてやめときゃよかった。
・痴呆の患者さんに、検査の説明に行くと、「どの面下げて戻ってきたか!このバカ息子!」と叫ばれました。バカでもいいけど、息子って・・・。頭ではわかっていても、傷ついた。もう看護師なんてやめてしまおうか?
失敗や挫折を経験したことのない看護師は、いないと思います。本当にやめたくなる位自分を責めたり、仕事に向かう足が重くて仕方なかったり、長く勤めるとその分、悩みの内容も変わっていくでしょう。新人なりの悩み、中堅としての悩み、指導者としての悩み、様々です。患者対応に関しても、本当に困った患者さんもいれば、天使のような患者さんもいますし、相性などもあることは確かです。でもナイチンゲールの教えによって「皆を平等に」看護する精神を培ってきたのなら、落ち込むことはあっても、やがて気持ちの切り替えを上手にできるようになるものです。だから、看護師さんは皆タフなのです。強さとやさしさは表裏一体、やめたくなる経験をした数だけ、乗り越えてきたから看護師でいられる。やめときゃよかった、でもやめられない。看護師はそんな素敵な職業です。
一昔前ですが、山崎章郎氏の『病院で死ぬということ』という本がベストセラーになりました。多くの人が今、病院で最後のときを迎えることに疑問を投げかけ、現在の一般病院が臨終のときを迎えるにふさわしいかどうか、を考えていくものです。この本の本質は、「死」という事象を前向きに捉え、自分らしい死の選択を奨めるというもので、ホスピスや尊厳死などもっと深い部分にまで言及されています。しかし私たち看護師は病院の中で、日常のようにそんなシーンに出くわすのです。病院には患者さんの数だけ尊い「命」が存在します。その全ての命の尊厳を遵守し、質の高い看護を患者さんに対して行えるなら、病院も変わってゆくでしょう。実際はスタッフの人数や患者対看護師の数、医療者の立場から見て業務一つを取ってみても、困難なことは明白です。これは多くの看護師たちが悩み、揺れ動く要因となり得る事情のひとつです。限られた設備、人員の中でどれだけその人の生き方を尊重した看護ができるか、尊厳を守った人と人の関係が築けるか、ということが最大の要点といえるでしょう。
人は生きてきたように死んでいくといわれています。充実した人生を送った人は、充実した死期を迎えることでしょう。そんなことを、患者さんの病室に立ち寄ったときに感じることがあります。いつもたくさんの家族や面会人に囲まれて、花と笑顔の耐えない病室。幸せな人生を歩んでこられたことは、手に取るようにわかりました。「人生の縮図」とはあながち迷信でもない気がしました。人生の最後のときをどこで迎えるか、どのように過ごすか、という選択は可能な限り患者さん本人に委ねたいものです。何らかの事情があって家族や第三者に委ねるにしても、本人の意思は最大限尊重したいと誰もが思うでしょう。「死」を忌み嫌う現代の風潮が、それを困難にしているということは事実です。病院のあり方にも問われるべきことはたくさんあります。
「死」への準備というものは誰もが皆考えなければならないことです。葛藤や嘆きの段階を経て、「死」を受け入れてなお、残りの「生」を充実させた生き方は理想的です。そのような光景が見られる病室の空気に触れることで、看護師は考えさせられる機会が一般人に比べると多いといえます。それらの思考を繰り返すことは、看護の質を高める一要素となると思います。病室の番号には「4」がありません。人々の意識の下に、「死」を避けたいけど避けられない、忘れたいけど忘れられない、そんな心理が隠されていることを表しています。難しいものですね。自分が病気になって入院したとき、病室に心配してくれる人や、花や笑顔があるだろうか。そんなことを考えながら看護師として働きつつ、この何気ない日々の生活を充実させることの大切さを意識したりします。